白群の一族一行と合流したのは、金虎の邸から北側にある森の前だった。
白漣宗主と白笶、奉納祭の席にはいたが口を出さなかった、宗主の子で白笶の兄である白冰、あとはあの礼儀正しいふたりの若い従者だった。
先に宗主に挨拶をし、その横にいた公子たちに続いて頭を下げる。白笶は相変わらず言葉を発することはなく、ただ丁寧に姿勢正しく挨拶だけ交わす。
宗主と白笶の間でにこにこと人懐こい柔らかい笑みを浮かべ、特に弟に何か言うでもなく、薄青の衣を纏った背の高い秀麗な容姿の公子がすっと手を差し出す。
細く長い髪の毛は胸の辺りまであり、藍色の紐で括って右肩に掛けるように垂らしている。青い瞳は穏やかで優しげだった。
「こうやって言葉を交わすのははじめて、だね。私は彼の兄の白冰。これからよろしくね」
弟とは真逆でかなり砕けた性格のようだ。にこにこと笑顔で自己紹介をし、ぶんぶんとふたりの手を取って激しい握手を交わした。
「ああ、このふたりは右が雪鈴、左が雪陽。似てない双子ちゃんだよ。なにか困ったことがあったら彼らに言って?」
竜虎たちと歳の変わらなそうなふたりの従者は、よく見れば確かに似ているところがある。双子らしいが、白冰の言う通り全く同じ顔ではなかった。
どちらも美しい顔立ちをしているが、印象としては雪陽の方が凛々しく、雪鈴の方は優しそうな雰囲気がある。背に白群の家紋である蓮の紋様が入った白い衣を纏い、頭の天辺で長い髪の毛を丁寧に結っていた。
「なんなりと申し付け下さい」
代表して雪鈴の方が言葉を発し、ふたり同時に頭を下げた。
「こちらこそよろしくねっ」
「よろしく頼む」
「こ、こちらこそ、なんなりと申し付け下さい!」
三者三葉の返答で金虎側も返す。
そして二列になって宗主を先頭に歩き出す。無明は竜虎の傍を離れ、雪鈴と雪陽を追い抜いて、ひとりで歩く白笶の横に並び、手を後ろで組み腰を少し折って前屈みになると、顔を下から覗き込んだ。
「また会えたね!」
「······ああ、」
再会が早すぎたが、気まずさよりも嬉しさの方が勝って無明は楽しそうだった。一方はまったく表情が変わらないが、ちゃんと返事を返してくれた。
「その衣、は······」
ゆっくり瞬きをして、ちらりと無明の方に視線を送る。
「似合うかな? 母上が紅鏡に来た時に着ていた衣を繕ってくれたんだ。光架の民の伝統的な衣裳なんだって。変じゃない?」
「変ではない。良く似合っている」
本当? とぱあっと明るい表情で無邪気な笑みを浮かべる。抑揚のない声で白笶は言ったが、嘘を言っていないことは解った。なのでたとえお世辞だったとしても嬉しい。
「ふたりは仲が良いね。いつからそんなに仲良しになったんだい?」
前を歩く白冰が興味津々に訊ねてくる。家族ともほとんど会話をしない白笶が、話題の金虎の第四公子と声を発してやり取りをしているのだから。
言葉を選んでいるのか、どう答えるか考えているのか、白笶は押し黙ってしまう。そんな姿を見て、無明はにっと口元を緩めて顔を上げる。
「ふたりだけの秘密!」
人差し指を自分の口元に当て、いたずらっぽく笑った。それはますます気になるなと白冰は肩を竦めたが、それ以上は追及するのをやめた。別に可愛い弟を困らせたいわけではないのだ。
「でもなんとなく、解るよ。君は魅力的だからね」
白冰は前を向き、森の木々の隙間から覗く晴れ渡った空を見上げる。幼い頃から表情が乏しく口数も少ない。
必要最低限の言葉以外は交わさず、笑わず、ただ静かに佇んでいることが多かった白笶。もちろん同じ年頃の術士たちもいたが、彼はいつもひとりだった。まるで近づく者を遠ざけるように、達観し、いつしか孤高の存在と化した。
それは彼の本望だったのだろうが、それが少し寂しく感じた。
✿〜読み方参照〜✿
白群《びゃくぐん》、金虎《きんこ》、光架《こうか》、紅鏡《こうきょう》
白漣《はくれん》、白笶《びゃくや》、白冰《はくひょう》、雪鈴《せつれい》、雪陽《せつよう》を
■〜第一章 予兆〜■ 暉の国。 夜になると妖者と呼ばれる魑魅魍魎が跋扈する地。かつて国を脅かしていた、邪悪な鬼術を操る一族が伏魔殿に封じられ数百年が経った今も、その影響は完全に止むことはなく。国の各地方を守護する五つの一族は、妖者によって日々絶え間なく起こされる災厄に手を焼いていた。 紅鏡、碧水、光焔、金華、玉兎。 国は五つに大きく分かれており、それぞれ金虎、白群、緋、雷火、姮娥という一族が治めている。 一族の長は宗主と呼ばれ、その嫡子を公子と呼ぶ。一族に仕える者を従者、また一族の門下に入り術を修めた者を、総じて術士と呼んだ。**** 紅鏡。金虎の邸。同じ敷地の中にいくつかの大小様々な邸が存在した。その中でも一番小さく質素な造りで、中心に存在する宗主の邸から一番離れた場所に在るのが、第四公子とその母が住まう邸である。 小さいが手入れの行き届いた庭には年季の入った桜の木が一本と、赤と白の模様の鯉が二匹泳ぐ小さな池があり、その周りには季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れそこに住む者の穏やかさを感じさせた。 邸からはいつものように奇妙な笛の音と、繊細な琴の音が奏でられている。 春。疎らな薄紅の花衣をつけた桜の木の下で目を閉じ、適当な音程で気のままに横笛を吹いているのは、額から鼻の先を覆う白い仮面を付けている少年だった。十代半ばくらいの見た目で上下黒い衣を纏っている。長い黒髪は赤い髪紐で結んでおり、細身で小柄な印象があった。 そこからさほど離れていない向かい側の邸の縁側で、でたらめな笛の音に合わせて琴を奏でているのは少年の母である。大きな翡翠の瞳が特徴的な美しい容貌の穏やかな女性だが、少女のようなあどけなさも垣間みえる不思議な魅力があった。 ふいに琴の音が止まり、少年の笛の音も遅れて止まる。見れば母が立ち上がり両手を胸の前で組み、丁寧に頭を下げる仕草をしていた。(珍しいな。父上がこんな時間にここに来るなんて。奉納祭の打ち合わせとか? にしては、なんだか難しそうな顔をしてるみたい······) 母の視線の先に現れた人物に少年も慌てて同じように立ち上がり、やや雑だが胸の前で腕を上げて囲いを作り頭を下げてお辞儀をする。 まだ朝から昼の間くらいの刻であった。事前の連絡もなく突然訪問してきた宗主を、母が縁側から降りて自ら歩み寄りいつものように出迎える。
「姜燈が今回の奉納祭も自分が仕切ると言い出して、虎珀もそれを了承してしまったものだから····色々と頭が痛くてね」 姜燈は宗主である飛虎の第一夫人で、虎珀は亡くなった前夫人蘇陽の子。四人いる公子のひとりで、無明から見ると母違いの一番上の兄である。 まだ若く二十歳で、生まれつき病弱で術士としては存在感が薄いが、その博識さと寛容な性格が気に入られ、宗主である父を傍で支えているひとりだ。 姜燈には息子がふたりと娘がひとりおり、なにかと理由を付けては長男に活躍させる場を設けさせていた。(虎珀兄上らしいと言えばそれまでだけど····) 寛容すぎるが故に、押しにも弱い。頭も良く行動力もあるがなにより優しすぎるところがあった。どちらかと言えば、姜燈夫人の勢いに負けたという方が正しいのかもしれない。 「けど、毎回奉納祭は姜燈夫人が仕切っていたのに、今回に限ってなにか問題でも?」「奉納祭は毎年行われる国の行事というのは知っているわね? けれども百年に一度だけ、各地方各一族が祀っている四神の宝玉を持ち寄り、光架の民の末裔が四神奉納舞をすることで穢れを祓い、また百年土地を守るための清めを行うの」「その百年に一度が、今回の奉納祭ってこと?」 そうよ、と藍歌は小さく頷いた。光架の民とは、遥か昔、この地を拓いたという神子の血を引く一族で、今も少数だが存在する。 俗世から離れ、どこかの山の奥の奥に住んでいるとされるが、誰もその正確な所在を知らない。一年に一度行われる奉納祭の時にだけ山を下りて来て、四神への奉納舞を舞い、役目を終えると言葉も交わさずにさっさと帰ってしまうという。 彼らは今もなお先人と変わらぬ高い霊力を持ち、孤高の存在と化しているため、他の一族からも一目置かれているのだ。 十六年前。当時十五になったばかりの藍歌は初めて紅鏡を訪れ、舞を舞った。それに一目惚れをした飛虎の熱心な求婚によって、藍歌は第三夫人となったのだ。 その一年後に無明は生まれ、現在に至る。 つまりは母は光架の民で、母の父は長。無明にとって祖父に当たるその人は、娘の婚姻を反対することもなく、簡単に承諾したらしい。「百年祭とも呼ばれている大切な行事のため、間違いのないように、事前に手順や準備を頼んでいた虎珀に取り仕切ってもらうはずだったが、」「でも、奉納祭って五日後じゃ····」 その言葉
宗主が去った後、先ほどまで穏やかに音を奏でていた縁側の琴をしまい、藍歌と無明は文机を挟んで向かい合うように座る。 無明の部屋はいつもの如く、書物や竹簡、書きかけの符や作りかけのガラクタが、狭い部屋いっぱいに散らかっていた。 二人の間の文机も山のように積み上げられた書物で埋もれており、かろうじてそれぞれの顔が見える状態だ。 艶やかな長い黒髪を飾る赤い花の髪飾りがとてもよく映え、薄化粧だが十分整った美しい容貌の藍歌の表情は、宗主の前で見せていた気丈さを失くし、どこか不安げだった。 一方、同じ黒髪だが少し先の方に癖のある髪を頭のてっぺんで無造作に括り、赤い紐で結っている無明の表情は、白い仮面に覆われていてさっぱり解らない。 藍歌によく似た薄赤色の綺麗な口元は、いつもの如くへらへらと緩んでいて、不安など一切感じさせないのだ。「母上、姜燈夫人はなにを仕掛けてくると思う?」 手を頭の後ろで組み、足を崩して無明は楽しそうに言う。他の公子たちとは違い、武術の修錬などしたことがないので腕も細く、肌も生白い。声音は女にしては低く、男にしては少し高いため、中性的な印象を受ける。 上背も藍歌とほとんど変わらないため、同じ年頃の子と比べれば低い方だろう。話し方や仕草からは天真爛漫さが溢れ、今も楽しくてたまらないという感情が汲み取れた。「あなたに金虎の一族の直系が授かる力が無く、将来宗主になどなる資格もないと解っているのに、どうして夫人が敵意を向けてくるのかわかる?」 そもそも自分たちはそういうものに興味がなく、ただ平穏無事に日々を過ごせれば、他にはなにも要らないと思っている。それを宗主も解っているので、生まれてすぐに無明に仮面を付けさせ、この離れに住まわせているのだ。 邸に住む他の公子、親戚、従者や術士、門下生に至るまで、無明のことをなんと呼んでいるか。 痴れ者。つまり、愚か者の公子。従者や一部の民、他の一族の者たちの間では、ちょっと頭があれな公子といえば、紅鏡の第四公子、と皆が口を揃えて答えることだろう。 無明は色々な意味で一族の誰よりも有名で、誰よりも不名誉な名の轟かせ方をしていた。「なんでだろう? 身に覚えがありすぎてわかんないや。へへ。俺、ちゃんと周知の痴れ者でしょ?」「その痴れ者と呼ばれてるあなたが、夜にこっそり邸を抜け出して、妖者退治をしているって
(内緒だよ、って言ったんだけどなぁ) はは、と肩を竦めて無明は苦笑する。白い仮面、笛、奇怪な術符。特徴がありすぎて噂はどんどん広まってしまったらしい。 仮面は宗主にしか外せないため、素顔はもちろん知られることはないが、民たちの噂の種になるにはじゅうぶんだろう。「仮面を付けていたからと言って、あなただとは断定していないとしても。もしかしたら、と疑念を抱かせてしまうわ。たとえみんなの前ではなんの力もないと見せていても、ちょっとした綻びで偽りが暴かれてしまうこともある」「わかってる。俺も今の不変で平穏な生活が好きだし、壊したくもない。でも探究心は抑えられないし、ここにあるたくさんの符や術譜を試したくてしょうがないんだ」 好奇心や探究心は、邸に閉じこもってばかりの無明にとってなによりも一番大事な事だった。「それに困ってる人を助けるのは悪いことなの? 力があるなら使わないと。都の術士たちは上物の妖者をすすんで退治したがるけど、誠実な気持ちでやっているのはほんのひと握り。本当に厄介な怪異や妖者には目を背ける者が多い。そんなの、俺は、」 途中まで流暢に話していた無明の声が止まる。 夢中で話していたその視線の先にいる藍歌が、静かに頷いたからだ。その実情は宗主も知っている。 だが時に命を落としかねない事態もあるからこそ、見極めも必要と結論付けている。それはどこの一族も同じで、違うとするなら碧水の白群の一族くらいだろう。「あなたのやっていることを止めるつもりはないわ。あなたは賢いから、言わなくてもわかっているでしょう? 誰にも気付かれないように、上手くやればいいだけ、」 しばし藍歌のその言葉に対して呆気にとられていたが、その意図を理解した無明はにっと笑って文机に頬杖を付いた。「母上、これはまだ試験段階なんだけど、ものすごく面白い符を作ったんだっ」「ふふ、どんな効果があるの?」 無邪気に笑って、無明は得意げに話を続ける。それを飽きることなく聞きながら、藍歌はうんうんと頷いていた。 新しい玩具を手にした小さな子どものようにはしゃぐ無明を眺めていると、胸の奥に渦巻いていた不安がすうっと消えていく気がした。 昼を知らせる鐘の音が響く。同時に邸の従者が昼食を運んで来たので、話はそこで終了した。 従者が来る気配がした途端、無明はばっと勢いよく立ち上がり、くるくると
こつん。 ————こつん。 ————こつん。 真夜中に小さく響くその音はいつもの合図で、無明はぱちっと仮面の奥の瞼を開くと、身体を起こし近くにあった衣を纏って寝床を後にする。 こそこそと庭に出て、不規則に騒がしく鳴いている蛙の声を聴きながら池の前を通り過ぎると、低い塀の天辺から顔を覗かせた顔馴染みを発見し、大きく手を振った。 月明かりが暗い夜の闇を照らす中、しーっと人差し指を立てて慌てるその少年は、同い年だが生まれた月がふた月だけ早い三番目の公子、竜虎である。 見るからに神経質そうな彼は、無明とは対照的な少年だった。銀色の筒状の髪留めでまとめてお団子にし、長めの前髪は几帳面に丁度真ん中で分けられている。形の良い額と整った顔立ちがよりその秀麗さを際立たせており、金虎の一族の特徴である紫苑色の眼は切れ長で凛々しいが優しさも垣間見えた。 低い塀をひょいと片手を付いて乗り越え、地面に着地した無明は、あれ? と首を傾げて珍しいものでも見るように腰を屈めた。「璃琳お嬢様、こんな夜更けにお散歩ですか?」 竜虎とよく似た、けれどもそれよりも大きな瞳の少女に対し、わざとらしく敬語を使い丁寧にお辞儀をして様子を窺う。綺麗に整えられた黒髪は肩の辺りまであり、そのひと房を括って飾られた薄紫の花が付いた髪飾りがとても良く似合っている。 少女は右手に灯を、左手は兄である竜虎の衣の袖を遠慮なく強く掴み、きっと睨むように無明を見上げた。 彼女はふたりの三つ年下の十二歳。竜虎と同じ母、つまり姜燈夫人の子で、無明の義妹でもある。「なにがお散歩ですか? よっ! そんなの見ればわかるでっ······もぐっ」「璃琳、声が大きいっ」「ふたりとも大きいよ~あはは」 けらけらと笑って無明はふたりに教えてやるがふたりは同時にこちらを睨んで牽制してくる。金虎の一族が纏う、袖と裾に朱と金の糸で複雑な紋様が描かれた白い衣を羽織っている竜虎と、薄桃色の外出用の動きやすい上衣下裳を纏った璃琳。 無明はといえば、袖や裾の紋様は竜虎のそれと同じだが黒い衣を纏っている。一族の直系や親族が纏う白に対して黒の衣は従者の纏う色だった。「私はふたりの監視役よ。明日は奉納祭だし、なにかあったら大変でしょ?」 今度は声を潜めて得意げに見上げてくる。それはこっちの台詞だ、と竜虎は肩を竦めた。いつものよう
五年前。北の森で迷子になり、そのまま陽が沈み辺りが暗闇に包まれる中。大きな木の下でふたりでぴったりくっつきながら、大人たちが助けに来てくれるのを不安な気持ちで待っていた。 ざわざわと木々がざわめく音さえ恐ろしく、ほんの少し前まで仄かに空を照らしていた月明かりさえも、遂に暗い雲に隠れてしまう。 すぐ目の前をよろよろと彷徨い歩く殭屍たち。陰の気を浴びて本能のままに動く恐ろしい死体に、思わず声を上げそうになった。ふたりはお互いの口を交互にしっかり押さえて、さあぁと青ざめる。 その時だった。 背にしていた木の上からふたりと殭屍の丁度真ん中に降り立った影が、符を数枚投げ印を結んで緑色の炎で闇夜を照らしたのだ。 殭屍は人のそれと違う、獣に似た大きな悲鳴を上げてもがいた後、その緑の炎に焼き尽くされて跡形もなく灰へと化し散っていく。(父上? ······ん? 虎珀兄上? ········誰?) 人を喰う凶暴な殭屍をいとも簡単に倒したのは、自分と同じくらいの子どもだった。ゆっくりと雲が晴れ、闇夜がうっすらと明るさを取り戻す。 頭の後ろで手を組んでくるりと振り向いた子どもは、従者が纏う黒い衣を纏い、白い仮面を付けていた。へへ〜と笑ったその子供は、おまたせ~と楽しそうに笑うと、組んでいた手を闇夜に掲げて万歳をしてみせた。 普段だったら「誰がお前なんか待つかっ!」と突っ込んでいただろうが、竜虎はその時ばかりは大泣きした。つられて璃琳もわんわん泣き出す。「ふたりとも、無事か!?」 ざっざっざっと大勢の足音が駆け寄ってきて、宗主である父が先頭をきって駆け寄って来た。 しかし、ふたりの姿を見つけた夫人が宗主を追い抜いて恐ろしい形相で駆け寄ってきたかと思えば、有無を言わさず無明の頬を怒りに任せてぶったのだ!「お前、私の大事な子どもたちになにをしたの!」「やめなさい!」「なぜ止めるの!? あなたは自分の子どもたちが心配じゃないのっ」「無明も私の子だ。君はそこのふたりだけが私の子で、無明は他人か従者だとでも言いたいのかい?」 もう一度手を振りかざした夫人の手首を、思わず宗主が掴んで止める。姜燈夫人のその言い方にさすがに宗主も呆れた。夫人が無明に従者の衣を着せた時から薄々感じていたが、そこまでだとは思っていなかった。「どうせこの子がふたりを無理やり森に連れ込んだので
「あなたは余計なことをしないで頂戴、」「夫人、相手はまだ幼い子どもです。手をあげるのは感心しません」 虎珀は義弟たちの間に立ち夫人を諭そうとするが逆効果だったようで、ますます姜燈夫人の顔が苛立ちを顕にした。 いつまでも収集がつかない現状に、宗主は仕方なくこほんとひとつ大きな咳をして注目を自分に向けさせる。このままでは、ここに集まっている従者や他の術士たちに恥を晒すだけだ。「皆が無事だったのだから、もう良いだろう。落ち着いてからふたりに事情を聞けば、なぜこのようなことになったか解る。決めつけるのはよくない」「なんですって!?」「虎珀、弟たちを頼んだぞ」「はい、父上」 宗主は有無を言わさず、諦めきれない夫人の肩を抱いて先に去って行った。続いて他の術士、従者たちがやれやれという顔でその後をついて行く。 前を歩く虎珀の後ろで、三人は大人しく綺麗に縦一列になって歩いていた。そんな中、弾むような足取りで一番後ろを歩いている無明に対して、ふたりはひそひそ声で訊ねる。「なあ······本当にだいじょうぶか? 母上の平手打ちは最強に痛いんだ。俺も一度されたことがあるからわかるよ、」 大切にしていた花瓶を割ってしまった時があり、竜虎はそれをくらっていた。頬ではなく、その時は手の甲だったが。 璃琳はおずおずと竜虎の袖を掴み、俯いているようだ。そもそもこの事態は、璃琳が森に行ってみたいという駄々を、竜虎が同じく興味本位で叶えてしまったせいだった。 森は危ないというのは知っていた。しかし昼間なら妖者もいないので、問題ないと思ったのだ。その結果道に迷い、宛もなく彷徨ってしまったせいでこのような大事に····。「こんなの、全然へーきだよっ」 いつもなら自分たちをいらっとさせるへらへらした笑い方が、今はなぜかふたりを安心させる。「あ、そうだ! 俺が術を使ったことは、みんなには内緒にしてね?」 人差し指を立て自分の唇にあてると、ふたりだけに聞こえるように耳打ちする。理由は聞かず、こくりとふたりはただ大きく頷いた。 この瞬間から、この夜のことは三人だけの秘密となったのだ。思えばこの時から無明才能は開花していたのだ。たった十歳で、しかも符だけで、あの凶暴な妖者を倒したのだから。 竜虎はこの日を境に、自分からすすんで厳しい修練に励むようになるのだった。
ふとあの日の出来事を思い出していた竜虎は、無明の返事を待つ。 あれから五年経ち、ふたりは十五歳になった。妖者退治に関しては今のところ無明の方が勝っているが、背丈と同じようにその内追い抜いてやる予定だ。「明日は早いから、近場のこっちかなっ」「よし、決まりだな」 仲の良いふたりの横で、むうっと璃琳は頬を膨らませる。「ふたりとも、ちゃんと私を守ってね!」「怖いなら無理してついて来なくても····」「私はふたりの監視役なんだから、ついて行くに決まってるでしょ!」 はいはい、と竜虎は自分の肩の高さ辺りにある璃琳の頭をぽんぽんと叩く。単に仲間外れが嫌なだけのくせに、と素直じゃない妹の性格に同情する。「心配しなくても大丈夫だよ? 璃琳は俺が守ってあげるから」 ふたりの会話を聞いていた無明が、璃琳の前にいつの間にかさっと立ち、見返りも悪気もなくいつものように笑った。 仮面の奥の瞳は相変わらずよく見えず、璃琳は馬鹿っ! 痴れ者! と竜虎を盾にして怒鳴りだす。しかし当の本人は怒られている理由がわからないため首を傾げ、興味をなくしたのかくるりと背を向けてさっさと歩き出してしまった。(なんなのよー! もうっ!! ばかっ) 暗闇のおかげで、耳まで真っ赤になった顔を晒さないで済んだのが、せめてもの救いだ。 夜に相応しくない賑やかしい一行が向かうのは、紅鏡の北東の外れ。遠くに見える北の森の奥で、他の術士たちが今夜も妖者退治を行っている中、三人は北東の方へと歩を進める。 月明かりと、仄かな灯。 澄んでいるはずの夜空にあるものがないことを、三人は気付いていなかった。 それがこの先に待つモノの不吉さを物語っていたことを知るのは、もう少し後のことである。✿〜読み方参照〜✿璃琳《りりん》紅鏡(こうきょう)
白群の一族一行と合流したのは、金虎の邸から北側にある森の前だった。 白漣宗主と白笶、奉納祭の席にはいたが口を出さなかった、宗主の子で白笶の兄である白冰、あとはあの礼儀正しいふたりの若い従者だった。 先に宗主に挨拶をし、その横にいた公子たちに続いて頭を下げる。白笶は相変わらず言葉を発することはなく、ただ丁寧に姿勢正しく挨拶だけ交わす。 宗主と白笶の間でにこにこと人懐こい柔らかい笑みを浮かべ、特に弟に何か言うでもなく、薄青の衣を纏った背の高い秀麗な容姿の公子がすっと手を差し出す。 細く長い髪の毛は胸の辺りまであり、藍色の紐で括って右肩に掛けるように垂らしている。青い瞳は穏やかで優しげだった。「こうやって言葉を交わすのははじめて、だね。私は彼の兄の白冰。これからよろしくね」 弟とは真逆でかなり砕けた性格のようだ。にこにこと笑顔で自己紹介をし、ぶんぶんとふたりの手を取って激しい握手を交わした。「ああ、このふたりは右が雪鈴、左が雪陽。似てない双子ちゃんだよ。なにか困ったことがあったら彼らに言って?」 竜虎たちと歳の変わらなそうなふたりの従者は、よく見れば確かに似ているところがある。双子らしいが、白冰の言う通り全く同じ顔ではなかった。 どちらも美しい顔立ちをしているが、印象としては雪陽の方が凛々しく、雪鈴の方は優しそうな雰囲気がある。背に白群の家紋である蓮の紋様が入った白い衣を纏い、頭の天辺で長い髪の毛を丁寧に結っていた。「なんなりと申し付け下さい」 代表して雪鈴の方が言葉を発し、ふたり同時に頭を下げた。「こちらこそよろしくねっ」「よろしく頼む」「こ、こちらこそ、なんなりと申し付け下さい!」 三者三葉の返答で金虎側も返す。 そして二列になって宗主を先頭に歩き出す。 無明は竜虎の傍を離れ、雪鈴と雪陽を追い抜いて、ひとりで歩く白笶の横に並び、手を後ろで組み腰を少し折って前屈みになると、顔を下から覗き込んだ。「また会えたね!」「······ああ、」 再会が早すぎたが、気まずさよりも嬉しさの方が勝って無明は楽しそうだった。一方はまったく表情が変わらないが、ちゃんと返事を返してくれた。「その衣、は······」 ゆっくり瞬きをして、ちらりと無明の方に視線を送る。「似合うかな? 母上が紅鏡に来た時に着ていた衣を繕ってくれたんだ。光架の民の伝
塀の低い門の前で、無明と藍歌夫人がすでに用意を終えて待っていた。「藍歌夫人、お久しぶりです。お身体の方は大丈夫ですか?」「ええ。白群の公子殿の処置が完璧だったおかげだと、お医者様がおっしゃっていたわ」 顔色も悪くないので、やせ我慢ではなさそうだ。竜虎は心配事がひとつ片付いた後、もうひとつの問題に突っ込まざるを得ない。「お前······その恰好、」「どう? 母上が今日のために繕ってくれたんだ」 無明はいつも纏っている黒い衣ではなく、珍しい色の衣を纏っていた。もうひとつの問題とはまさにこのことで、その恰好はなんというか········。「か、」「か?」 竜虎は言いかけて、思わず出かけた言葉を呑み込んだ。無明は首を傾げて不思議そうにこちらを見ている。(いや、俺は何を言いかけた!?) 青ざめて、首を横にぶんぶんと振る。 違う違う。それじゃない! 訂正!「な、なんて恰好をしてるんだっ! まるで女人じゃないかっ」「え? でも似合ってるでしょ? そんなことで怒らないでよ」(お前は、恥を知るべきだ!) 袖と合わせの部分に金と白い糸で繊細な紋様が描かれた、膝の辺りまでの長さの水浅葱色の薄い羽織。その中に白い上衣、白い表袴の上に羽織と同じ色の薄い下裳を纏っており、それに合わせた藍色の帯紐に付いた薄紫の花の飾りなどはどう見ても女物にしか見えない。 けれども翡翠の瞳の色を薄めたような水浅葱色の羽織は、本人には口が裂けても言わないが本当によく似合っていた。「ふふ、私が紅鏡に嫁ぎに来た時に纏っていた衣裳を繕ったの。髪の毛もそれに合わせて結ってみたわ。どうかしら?」「いや、どうと言われても······」 どこに嫁ぎに行かせる気なんだ! と心の中で突っ込まずにはいられない。 夫人がどうかしら? と言っている髪だが、左右ひと房ずつ横で赤い紐と一緒に編み込み、それを後ろで軽く纏めて結び、背中に垂らしている。それは間違っても、十五歳の少年が普段する結び方ではなかった。「か、可愛らしい········はっ!?」 思わず清婉は竜虎が呑み込んだ言葉を口に出し、すぐさま我に返る。「そうでしょう? そうでしょう? 光架の民の特別な衣裳と結び方なのだけど、良く似合ってるわ」 藍歌はふふっと満足げに笑って、無明の両肩に手を添え羽織を直す。表向きはお供としてと宗主は
■〜第二章 邂逅〜■ 翌日。 竜虎は姜燈に何度も、それは耳に胼胝ができるほどしつこく念を押された。「いい? なにかあったら必ず知らせを飛ばすこと。無謀なことはしないこと」「無明が馬鹿なことをしないように眼を光らせること、でしょ。何度も聞いたから大丈夫だよ、母上」 そもそも普段の無明は姜燈が思っている何倍もまともだ。さすがに他の一族の前でいつもの"あれ"をすることはないだろう。白群の公子とはいつの間にか仲良くなっていたし、今更痴れ者になる必要もない。「兄様、気を付けてね、」 璃琳は心配そうに眉を寄せて、竜虎の両手を取って別れを惜しむ。確かに寂しくないわけではないが、今は好奇心の方が勝っていた。「璃琳も元気で。無明のことは心配無用だ」 最後の方は耳打ちするように小声で伝える。べ、別に! 心配なんてしていないわっ! と璃琳はあからさまに動揺して声を荒げた。 無明も今頃、同じように藍歌と別れを惜しんでいることだろう。「竜虎これを持って行って? 怪我をしたら使うといい。傷に良く効くはずだよ」 あの一件で少しやつれたように見える虎珀だが、いつものように微笑んで貝殻でできた薬入れと薬草を詰め込んだ袋を手渡す。 ありがとう、と竜虎は頷く。大変な時なのに自分のために用意してくれたのだと思うと嬉しかった。それに比べて血が繋がっている方の兄の姿はない。自分のことなど眼中にないのだろう。「戻ってきたら、虎珀兄上の力になるから期待して待ってて」 母に聞かれないように小声で伝えると、虎珀は首を振った。「こちらのことは気にしなくていい。君は君のために頑張って」 竜虎は虎珀らしいと思いながらも、心の中で最初の誓いを叶えられるように精進しようと決める。「白群の方々を待たせても悪い。竜虎、私からは、昨夜の内に十分言葉は送ったから必要ないだろう。しっかり学んで来なさい」「はい、父上。では、行ってきます」 前で腕を囲って丁寧に揖し、深く頭を下げる。顔を上げ、地面に置いていた荷物を持ち、そのまま見送りに来てくれた者たちに背を向けると、無明の邸の方へと歩を進める。 若い青年の従者が、その後ろをそそくさとついて歩く。飛虎たちが見えなくなった頃に、その従者が恐る恐る竜虎に声をかけてきた。「······あ、あのぅ、竜虎様?」「どうした? なにか忘れ物か?」「い、いえ!
――――その夜。 宗主に本邸に呼ばれた無明は、自分の耳を疑った。聞こえていないと思ったのか、飛虎はもう一度同じことを繰り返す。「紅鏡を離れ、この国をその目で見て感じてくるといい」「··········はい?」 目が点になっている無明を現実に戻すように、飛虎は話を続ける。「藍歌とも話した。お前は、この小さな囲いの中で納まる器ではない。外の世界を見て、たくさんの人に出会い、修練を積んだ方がいいと。そして戻って来た時に、ひと回りもふた回りも成長した姿を見せて欲しいと」「けど、竜虎にも聞いたでしょ? 晦冥のこと。あの陣のこともさっき話したばかりで、」 あの陣がただの陣ではなく、烏哭の宗主が生み出したものかもしれないということを。「それは我々が解決する問題であって、お前が案ずることではない」「それに! 夜の妖者退治も、都の人たちの厄介ごとも、俺がいなくなったら······っ」 竜虎がひとりで引き継ぐことになる。そうしたらなにかあっても守れない。「それは金虎の術士たちに任せる。私から命ずることで動かざるを得なくなるだろう。彼らにも多くの経験が必要だ。お前たちがやって来たことは手放しで褒めてはやれないが、良くやってくれた。同じ志で行動できる術士たちを増やすきっかけにもなるだろう」 ここに残るための理由をほとんど潰されて、無明は押し黙る。藍歌がすでに宗主の考えを汲んでいるため、藍歌を理由にもできないのだ。「それに竜虎にはすでに話してある。今頃準備をしているだろう」「え? どういう意味です?」「表向きは竜虎のお供として、各地方の一族に挨拶がてら修練をつけてもらうという話にしている。朝から各宗主の元に出向いて話は付けてきた」 そこで無明は気付く。あの時、白漣宗主が言っていた言葉の意味を。 しかもあの様子からして、白笶も知らされてなかったのだろう。今頃どんな顔をしているかものすごく気になる。「出立は明日。白群の宗主たちと一緒に碧水へ。その後のことはお前たちに任せる」 もうどうにでもなれと、無明は解りましたと答え、そのままその場に跪いた。深く頭を下げて儀式的な別れの挨拶を行う。「父上、母上を頼みます」「こちらの事は案ずるな。道中は危険だ。どんな時もふたりで協力して、しっかり学んできなさい」 顔を上げた無明の頭を撫で、それから小さな子どもにするよ
食事処を出て、そのまま白群の一族が借りている邸へ向かう。奉納祭で助けてもらった礼をどうしても宗主に直接伝えたかったのだ。 夕方近くにやっと帰ってきた白笶を、ふたりの若い従者らしき者が礼儀正しく迎えた。隣にいる自分にも同じく挨拶をしてくれたので、慌てて無明も返す。ふたりは腕に抱えられた土産物を白笶から受け取って奥へと持っていった。 白笶は無明を連れて宗主がいる部屋へと向かう。部屋の前で声をかけて中に入る許可を得る。ふたりは腕で囲いを作り頭を下げて挨拶をすると、奥に座る宗主の顔を窺った。「伯父上、戻りました」 白笶は宗主の弟の子であったが、赤子の頃に両親を失ったため、宗主が自分の養子にしたのだった。しかし白笶は自分の立場を理解した上で、宗主を伯父上と呼ぶ。「奉納祭のお礼を直接お伝えしたくて、公子様に頼んで連れて来てもらいました。あの時は助けてくださり、本当にありがとうございました」「いや、礼には及びません。むしろ、こちらの方が礼を言いたいほどです。玄武の宝玉は浄化され光を取り戻しました。なにより、今まで見たどんな舞よりも実に見事な舞でした」 六十代くらいの宗主は目じりの笑い皺が特徴的で、威厳があるがとても優しい眼差しをしており、瞳の色は白笶よりもずっと深い青色をしていた。「今日は白笶が世話になったようで、」「俺の方こそ助けてもらってばかりなのに、なにもお返しできてなくて。今日もそのお礼のはずだったのに、良く考えたら自分が一番楽しんでいたような気も····、」 あはは····と苦笑し、無明は頬をかく。「とんでもない。友のひとりもいない子で、誰かと出かけるなど今まで考えられない事でしたので。よほどあなたが気に入ったのでしょう」「それは俺も似たようなものです」 正直、友と呼べる者はいない。竜虎や璃琳は友というより家族で、かけがえのない存在ではあるが。「先ほどまで飛虎宗主がいらっしゃったのですが、行き違いになったようですね」「父上が?」 そうえいば、昨日の夜に白群の邸に礼をしに行くと言っていた気がする。「歴代の金虎の宗主の中でも、あの方は立派な宗主です。我々は大したことはしていないのに、わざわざ宗主自ら礼に来るなんて、」「あの時宗主や公子様が発言してくださらなかったら、奉納祭は成功していなかったと思います」 謙遜する宗主にふるふると首を
多くの人で賑わう都の盛り場は、様々な店が立ち並ぶ。 昼を知らせる鐘が鳴り、ふたりは丁度目の前にあった食事処へ入った。無明や白笶の衣を見た店主は、他の客たちがいる一階ではなく、二階のさらに奥の部屋に通す。 任せると言われたので適当に料理を頼むと、少しして頼んだ料理が運び込まれ、丁寧に低い机の上に並べられた。「紅鏡の料理はどれも美味しいんだけど、碧水の料理とはやっぱり違う?」 大皿にのった料理を少しずつ皿にのせて、白笶の前に差し出す。「どうしてあの時、晦冥にいたの?」 今更だが、なぜ昨夜、あんな場所に偶然居合わせたのか。それがどうしても気になっていた。あんな場所、普通なら頼まれても訪れたいと思う者はいないだろう。「毎年、この時期に訪れている」 寄せられた料理を口にしながら、表情を変えずに白笶は淡々と答える。どうして訪れているのか、と訊きたかったが止める。「そっか。でもそのおかげで俺も竜虎も命拾いしたってことだね。公子様は、あの六角形の赤い陣、見たことはある?」「あれは、······かつてあの地を支配していた、烏哭の宗主が作り出した陣のひとつに似ていた」 箸を置き、真っすぐにこちらを見つめてくる。無明はその灰色がかった青い瞳に、吸い込まれそうになる。 紅鏡の者は紫苑色の瞳の者が多いが、碧水の者は瞳が青いらしい。生まれた地で色が違うため、どこから来たかはその瞳の色で解る。ちなみに翡翠の色は光架の民の特徴らしい。「けど、ずっと昔に伏魔殿に封じられてるひとの陣が、どうしてあんな場所に?」「烏哭の一族は一族といっても血の繋がりはなく、邪神を崇拝する術士たちもひと括りにされていたという。彼らが陣を模していても不思議ではない」 すっと伸びた背筋は凛としていて、抑えていても低く響くその声は説得力がある。「どうしてそんなことまで知ってるの? 古い書物にも載っていないのに、」 陣のこともそうだが、まるで見てきたように語るので、不思議でならなかった。数百年前の記述は、その当時の神子が自分の魂を犠牲にして、伏魔殿にすべての邪を封じたと書いてある。 しかし烏哭の一族に関する記述は、ほとんどなにも残っていない。妖者や鬼を操りこの国を手に入れようとしたが、神子によって封じられた、という事実のみ。「······碧水にある蔵書閣で、当時のことを記した記述を読んだ
邸に戻ると、飛虎がすでに藍歌の傍にいた。邪魔をするのもあれなので、無明は戻った報告だけして、昨夜の晦冥での出来事はまた後日話すことにした。 ふと薄青の衣が目に入って、あの時の事を思い出す。明後日には紅鏡を離れて碧水に戻ると言っていた。明日は都を案内すると約束した。その時に衣を返すことにしようとひとり頷く。 衣裳を脱ぎいつもの黒い衣に着替える。髪の毛は面倒なのでそのままにしておく。書物や竹簡の山で埋め尽くされた文机を少しだけ片付けて、その空いた場所に伏せた。 頬にかかる髪や落ちてきた赤い紐はそのまま、近くにある書物をパラパラと適当に捲る。「碧水、か。どんな所なんだろ。湖水の都か······綺麗なんだろうな······紅鏡も賑やかで好きだけど、叶うならいつか····他の地にも行ってみたいな」『一緒に、碧水へ、』 あの時の白笶の声が頭に響く。今なら、それもいいと答えてしまいそうな気がする。初めて会ったはずなのに、なんだかわからないが懐かしさを覚えた。いや、覚えていないだけで、もしかしたらどこかで会ったことがあるのかも?(うーん。あんな綺麗な顔のひと、一度でも会っていたら忘れないよね?) 明日また会って話をしたらなにか聞けるだろうか。ああ、その前に宗主に許可を貰わないと····と思ったところで、意識が途切れる。毒はほとんど抜けていたが、色々ありすぎて疲れていたこともあり、無明は机に伏したまま眠ってしまう。 少しして様子を見に来た飛虎が、部屋に静かに入ってきた。そして器用な格好で眠っている無明を抱き上ると、寝台へ運んだ。 正直、今日の無明の奉納舞や立ち振る舞いには驚いた。今まで素顔を覆っていた仮面は無くなり、隠していたモノが皆の前で晒されてしまった。その高い霊力も、能力も、行動力も。 鳥籠から放たれた小鳥が大空に飛び立ってしまうように、無明もいつか、自分たちの前から去っていくのだろうか。「無明、お前は何を望む? 今まで通りの平穏や不変か。それとも大きな変化か」 ここに留めておくのは狭すぎるだろうか。藍歌も言っていた。このままこの小さな邸の中で終わらせていいのかどうか、と。 まだ幼さの残るその寝顔を見下ろし、頬にかかる髪の毛をそっと払う。なにかを決意するように、飛虎は邸を後にした。**** 翌朝。藍歌に頼んで、宗主に外出の許可を貰った。その時
宗主は感情は抑えていたが、低い声音で無明を止める。そして自らは立ち上がり、後ろに立つ周芳の衣を掴んだ。「そ、宗主まで、あの痴れ者の言うことを真に受けるのですかっ」「痴れ者だと? あれは私の子だ。無明だけでなく、お前は藍歌をも侮辱した。すべてが明るみになった時、その身がどうなるか思い知るといいだろう」「叔父上、宗主の言う通りです。なぜこんなことをしたんですか? なんのために、こんな······」 虎珀はいつもの落ち着いた声音とは違う、信じられないという震えた声で、叔父である周芳を見上げていた。「この女がっ! 姜燈夫人がすべて悪いのです! 公子の役目を奪い、あたかもすべてが自分の手柄だとでもいうような振る舞いをするからっ! だから······っ」「だから、藍歌に毒を盛ったと?」 衣を掴んでいた手に力が入り、首が締まる。「それは、いったい誰のために?」「 あなたのために決まっているでしょう!」「私はそんなことを頼んだことなど一度もありません。その企みでこの奉納祭が失敗に終わったら、叔父上はそれを夫人のせいにして、嘲笑うつもりだったのですか? それで私が本当に喜ぶとでも?」 虎珀は淡々と言葉を紡いでいく。身内であるが故に、赦せなかったのだろう。そこに情状酌量の意はない。「父上、どうかこの者とそれに関わった者たちすべてを罰してください」 揖して、改めて虎珀は宗主に頭を下げた。宗主は周芳の衣を掴んだまま、従者を呼んだ。「この者を連れて行け」 宗主が従者の方へ乱暴に放ると、観念したかのように言葉を失った周芳が、力なく項垂れながら連れて行かれた。「無明、藍歌は無事なのだろうな? お前も毒を自分で試したと言っていたが、平気なのか?」「はい、白群の公子様に助けていただきました」 どういう経緯で、とは詳しく聞かなかったが、あとで礼をしに行くことにしよう、と宗主は言った。「後のことはこちらですべて片付ける。皆も思うことはあるだろうが、今回はこれで解散とする」 その言葉を以って宗主は早々に部屋を出て行ってしまった。それに対して誰かが何かを言うことはなく、残された者も次々に部屋を出て行く。無明もまた、それに紛れてさっさと部屋から去るのだった。「母上、絶対に周芳を赦してはいけません。母上を陥れようとするなんて、なんて奴。それにああは言っていたが、お前
「叔父上、どうされたのですか?」「は、早くそれを拭って!」 必死の形相で止めたのは虎珀の亡き母、蘇陽夫人の弟である周芳であった。「ふーん······あなたは父上や夫人、他の者たちが紅を付けても止めなかったくせに、虎珀兄上の時は止めるんだね」「どういう意味だ? この紅はなんなんだ?」 塗ってから急に不穏なことを言われて、虎宇は青ざめる。「別に何の変哲もないただの紅だよ。これは、ね」「痴れ者が、諮ったなっ!」 その表情や声には憎しみと恨みと、事が明るみに出てしまったことへの落胆が入り混じっていた。「こうも簡単に引っかかるなんて、こっちがむしろ驚いてるよ。本物かどうかなんて、正直な話、五分五分だったでしょ?」「こんな茶番に何の意味があるというの?」 夫人はいい加減呆れて、肩を竦める。「母上はこの紅が原因で、倒れたんだよ」 懐から本物の毒入りの紅の入った小物入れを取り出して、夫人の前に差し出した。その場にいた全員が真っ青になり、慌てて自分の唇と指に付いた紅を一斉に拭う。「倒れただって? いったいどういう紅なんだ ?」「あ、さっきも言ったけど、みんなに塗ってもらったのは普通の紅だから、大丈夫だよ?」 黙れ!と忌々し気に虎宇が今日一の怒鳴り声を上げた。その場の皆が同じ気持ちだったのか、こちらを見る目がどこか鋭い。「だって先に言っちゃったら、意味ないでしょ?」「お前、いい加減に····っ」「それが毒かどうかなど、誰が解るというんだっ! お前が適当に言っているだけだろう? そもそも私がそれを用意したという証拠はどこにもない」 虎宇の台詞を遮るように、ものすごい剣幕で周芳が怒鳴りだした。「自分で試したから実証済みだよ。あの毒紅はひとによって時間差はあるけど、まあまあ即効性があるよね。そして放っておけば重症になりかねない、とても危険なものだった」「だから、それで私が用意したという証拠にはならない」 虎珀の手首を解放し、周芳はふんと自身の潔白を訴える。まあ、確かに直接その手で用意したという証拠にはならないし、そのあたりはすでに対処済みなのだろう。「そもそもお前は自分で実証したというが、どう見ても毒に侵された様には見えないが? お前の方こそ嘘を付いているのでは? 紅に毒が盛られていたと嘘を付き、藍歌殿が舞を舞えなかった不始末を誤魔化そうとし